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かってにインパクトファクター

子育てサラリーマンが日々の雑多なことをつらつらと綴ってます。時々政治ネタ経済ネタコンピュータネタなどをはさみます。

やっぱり千羽鶴はいらないよね?

雑録 うちの奥さん

現在もまだ、4月14日から発生した九州の一連の地震およびその震災と戦っておられる方々に敬意を表します。


で、この手の大震災が発生した時には、様々なものが失われそうになるか、失われるわけで、それを防ぐ、もしくは補うために大量の支援が必要になります。

この支援なのですが、日本ではなぜか、千羽鶴も支援として送られるようなのです。

時には、海外の大震災でも千羽鶴を贈ろうと挑戦する方々もおられるのです。

www.j-cast.com

リエーター女性は、取材に対し、「いろんな意見を受け止め、今後の動きを検討したいと思っております」と言う。とはいえ、千羽鶴は、現時点ですでに1000羽以上集まっており、時期をみて届けたい考えだ。「文化や国境も越えて想いを届けることはできると思っております」としている。

そして、今回の熊本周辺での大震災でも千羽鶴を送る人を危惧して、震災で”いらなかったもの”として記事にもなっています。
news.nicovideo.jp


この話をうちの奥さんともしたんですが、奥さんとしては”いやいや気持ちは大事でしょ”とかいうんですよ。


そもそも私の”支援”の定義が、”震災が発生したことにより起こる変化を減らす方向に向かわせるなにか”なので、もともと千羽鶴があって、失われたならそれは支援だけど、もともと無い千羽鶴を送ることは支援に入らないってのも有るんですが。


まあそれは100歩譲って、支援の定義を広げたとしても、この千羽鶴を送りたい人、送るべきではないと考えている人の間には根本的な認識の違いがあると思うんですよ。


普通(私の中では)、千羽鶴というと、千羽鶴を貰う人は、入院でもしていて、自分の知り合い、顔見知りがおってくれた一つの千羽鶴を病室にぶら下げて、自分を応援してくれている人に思いを馳せるというイメージなんですね。

で、千羽鶴を送りたい人ってのは、この日常的なイメージに固着しているんではないかと思うんです。


実際に震災が発生して、避難所に避難している人からすると、毎日毎日大量の、誰が折ったかわからない千羽鶴が大量に届いて、千羽鶴を運ぶために運べなかった水や食料を渇望し、気持ちだけは受け取りたいと、捨てるに捨てられない千羽鶴の山が出来、そして人の寝る場所が減り食料を保管する場所が減る。そんな状況なのではないかと思うのです。


私は幸い、病院に長期入院したことも無ければ、避難所に逃げて大量の千羽鶴をもらったことも無いんで、想像で言ってますが、千羽鶴が効果を持つのって、それが数個までの千羽鶴で、だれが折ったのか大体イメージが付いている場合なんじゃないですかね?数百、数千という大量の、だれが折ったかわからない千羽鶴が送られても、迷惑なだけなんだと思うんですけど、この千羽鶴を送りたいって思う人は、受け取り手が心のなかで迷惑だなって思っていても送りたいものなんでしょうかね?

togetter.com


例えば、上述のハイチの件ですが、ハイチであれば、千羽鶴の意味はわからないと思うので(例えその意味を文書で記載したとしても、宗教観が根本から違うでしょうから本当の理解はなかなか出来ないと思います)、焚き火の材料にして終わりだと思うんですが、なまじっか意味を知っているだけに捨てるのにもパワーを必要とする日本人では、震災で精根尽き果てているなか、少ないパワーをそっちに消費するだけでも大変だと思うんですが。



とこれだけいろいろ言っている私ですが、未だに奥さんを説き伏せることが出来ないんですよね。
なんで伝わんないんだろうなー。