かってにインパクトファクター

子育てサラリーマンが日々の雑多なことをつらつらと綴ってます。時々政治ネタ経済ネタコンピュータネタなどをはさみます。

博士で民間に就職する意味

私は一応、既に博士として民間の企業に内定をいただいている身分ですので、ある程度偏りがある可能性があることをはじめに言っておきます。


このシリーズでは今までさんざん博士は就職が大変だと言って来た訳です。
大きな原因としては、

  1. ここ十年程度で博士の数が倍程度に増えている
  2. 官の定職としての研究職の枠にはほとんど変化がない
  3. 民間の受け入れ状況に大きな変化はない

があげられると思います。
さらに、最近の傾向として、定職だと思われていた枠に任期が設けられ、職を探す人の絶対数が増えているような気もします。
枠の数が変わらないのに、任期制にして入れ替えるということは、単純に考えるとお給料を人数で平均化しましょうという話になるわけで、苦しいときも楽しいときもみんなで分かち合おうという大変高尚な思想に基づいていたりするわけです。別に任期制自体はいい制度だと思いますけどね。


民間の受け入れ状況が変わらないというのも、ある意味仕方ないのかもしれません。博士をとるとなるとやはり研究職なのでしょうけど、その研究職自体は企業の商品開発費から出ているわけです。そして、民間の企業は開発費を売り上げの何%という形で決めていたりもするので、結局全体のGDPが大きく変化しない限りは開発費も大きく変化しないことになります。もちろんトレンドはありますけど、全体としてみるとそういうことだと思っています。パイがもっとも増えると期待される研究職以外の就職となると、やはり博士号をお持ちの皆さんは二の足を踏むのでしょう。


ということで、今日は、民間の研究職以外に就職する意義について考えてみたいと思います。


なんだか向こうの方で、”意味ねーよ”とか”負け犬”とか聞こえてきそうです。


ちょっと逆を考えてみましょう。大学院の研究室に私たちはいます。そこに、長年サラリーマンとして生活してきましたよという人を入れてみます。もちろん、ある程度研究に関して明るい人であることは前提ですけど、そんな人はいっぱいいます(極端な話し、その講座を出た修士上がりの人でもいいわけですし)。民間に長年いると、コストの観点や消費者の観点から物を見ようとします。役職によっては”説明責任”まで考える癖のついている人もいるかもしれません。普通大学の研究室ではそれほど採算ということは考えません。採算性については 工学系>理学系 という感じでしょうか。理学系で物理を研究している研究室では採算性なんて言葉は何年いても聞く機会はないでしょう。しかし、私はそこを開き直ってはいけないと思います。極端な話、純鉄のパーセンテージを一桁上げることに情熱を燃やす人にとって、実際に民間で生きる技術なのかどうかなんて関係なくて、理科年表に載るか載らないかが生きがいになってくるのやもしれません。そんな人に採算性を考えろという方が酷かもしれません。しかし、せめて民間の企業が参加するシンポジウムに参加して、自分たちが抱える技術や、例えで言うと純鉄の性質変化などを発表することで、その使い方は誰かが考えてくれる可能性もあるわけです。そして日本には多くの研究室があって、まだまだ世の中に浸透していない技術も山ほどあるわけです(しかし、内部の人に言わせると学会で発表しているなんて言うんでしょうけど)。ですから、私は大学院の研究室に少しずつでも民間の方を入れていくことに十分な意義があると思っています。もちろん溶け込める人でないといけませんが。


ではでは。民間の社会に博士が入っていくメリットはあるのでしょうか。先ほどの例では民間で働いていた人が研究室に入ってくるケースを考えました。このケースはレアなわけですが、民間に理系の人間が入ってくるケースは山ほどあります。というか普通ですよね。修士を出た人は普通に就職するわけですから、珍しくもなんともありません。


ということは、議論の中心になってくるのは修士と博士の違いになってきそうです。
修士と博士の違い・・・。実はこれ自体にはそれほど大きな違いはありません。と言ってしまうと元も子もないですよね。しかも博士課程の人間が言っても説得力ありませんよね。
しかし、そこは細かいことは気にせずに話を進めてみたいと思います。
修士と博士の外見上のもっとも大きな違いは、研究に従事した年数にあります。修士は2年で博士はあわせて5年です。一般的ケースで言うと、修士課程を卒業した人は3年で博士課程を卒業した人は6年以上研究に従事しているわけです。たった3年しか違いません。しかし、実のところその差は”3年”と一くくりに出来なかったりします。


それはなぜかといいますと。


まず、最初に講座に配属されたときにはたいてい学部の4年生なわけですから、がんばって院に行って頂戴ねということで、修士と博士の差はありません。しかし、いったん院に入ってしまえば、その講座を持っている先生からすると修士で卒業する人と博士まで行く人の差はずいぶん違います。なんせ博士まで行くと研究を学生に引き継ぐスパンが長くてずいぶん楽になります。その為か先生からすると学生が博士まで行くのかどうかは非常に重要な要素になります。博士に行くとなれば、最初からそれ相応の努力を課しますし期待もしています。早い段階で論文を書けと催促し、国際会議にも参加させ、学生の指導を任せて行きます。最終的には他の講座にPD(ポストドクター。要するにアルバイト)として行っても一人前に研究が出来るようになっていなければならないわけですから当然です。たった3年の違いですが、先生の学生との付き合い方には大きな差が出てきます。
私の中で、修士と博士のもっとも大きな違いは何かというと、それは”自分で課題を見つけて解決方法を考察できるかどうか”にあります。それは才能とかではなくて、経験です。最終的な博士論文を世に出すときに、他の研究室も含めた教授からの質問に対して言い訳せずに答弁出来るレベルにまで仕上げるにはそれ相応の努力が必要です。そして、その研究のために後輩の指導をしながら自分で色々試行錯誤してゆく期間が5年もあるわけです。
この経験が民間で出来ないのかどうかは私には分かりません。しかし、非常に貴重な経験をしていることは確かです。


ちょっと別の視点で見てみましょう。


日本以外の先進国では、比較的博士というものは尊重されています。別に尊重されるかどうかはどうでも良いのですけど、一つの知識レベルの指標として見られているというところは重要です。外資系企業と学術的な話をする際に、向こうが博士を連れてきている場合には出番が回ってきそうです。
研究所の人と良く話す機会のある仕事であれば、同じポジションとして溶け込めやすかったりもしそうです。これはあくまで私の希望的観測なのですが。


これらのことから、民間企業に博士号をもって就職することには私は意義があると思っています。企業内外に抱える問題点をみつけだしたり、マーケティングに関しても独自の視点で切り込めるのではないかと思っているのです。方向性の違う研究室ではつながりは少ないですが、その橋渡しも出来るかもしれません。


ということで、”博士が民間に就職する意味はある”という視点に立ってその意義を見てきました。修士課程より3年も多くかけてそれだけの価値しかないのかと思う人もいるでしょう。しかし、白楽先生の著書によれば、学士での就職が一番良いわけです。博士になりたいという気持ちを持っているのであれば、それで十分だとも思います。その上での話として、民間でも生きる道は十分にあるんだよという認識でよいと思うんですよね。そして、そういう気持ちをもって望めば博士を取っていない企業でも関心を示してくれると思うんですよ。


確かに元々研究職を目指して博士課程を選んでいるわけですから、研究職でない民間企業に入ってゆくことには抵抗があります。でもひょっとすると、博士号をもち、民間企業から研究にかかわってゆくことが出来れば、それこそ学際的な話を進めることも出来そうですし、その可能性ははやり自分次第という気もします。


自分の能力や経歴を現状でどう生かしてゆくのかは、どのポジションの方でも同じだと思います。数が増えても枠がないからと言って嘆くだけでは悲しいじゃないですか。





いや、けして私はクレジットカードの名前の頭にPh.D.をつけて、諸外国でちやほやしてもらいたいとか思ってないですよ。